2004年03月14日

『大英博物館の至宝展』

cmtsw7yr.JPG神戸市立博物館 三宮

昨年2003年に大英博物館は創立250年を迎え、さまざまな記念行事が開催されたが、昨年末から東京からはじまっている『大英博物館の至宝展』は同館8つの収蔵部門が参加する画期的内容で、海外の展覧会でははじめての試みだそうで、この展覧会が、東京、神戸、福岡、新潟とまわってくれることも日本人として嬉しく思います。

そんな展覧会なので前評判も高く、東京での開催では大多數の来場があったとお聞きしています。

神戸でも1月17日から開催されて、多くの神戸をはじめ関西の方々が博物館を訪れているようです。
私が行ったのは2月11日祝日の13時ごろ。
博物館の中に入るまで1時間待ち。
入館してからはあまりの人で進むのも大変という状況でした。

大英博物館は医者のハンス・ローンの収集品八万点近くを国に寄贈したことからはじまる。現在の収蔵品は700万点以上。100室近い展示室があり年間500万の人が訪れる。

大英博物館の収集品のなかで一番有名なのが、ナポレオン軍がエジプトのロゼッタで見付けた石。「ロゼッタストーン」だが、今回は複製品が来日。「ロゼッタ・ストーン」は大英博物館の目玉であり、1972年にパリに出展された以外国外には出されたことがないので複製展示で仕方無いというかんじだが、複製とわかっていても石のまわりには人だかりができていました。

他、今回の展覧会では展覧会の名のとおり、至宝ばかりであったがそのなかのものをいくつか。

イラク北部で出土したB.C645年ごろの雪花石膏に彫られた矢を受けて口から血を吐いている瀕死のライオンは印象深い。当時アッシリアではライオン狩りは武力の訓練や儀式として欠かせないものだったという。

古代エジプトではミイラがさかんに作られていたが、臓器は遺体とは別の壷に保存された。
遺体に残したのは人間存在の中心で知性を宿すといわれていた心臓だけである。
別に保存される臓器はすべてではなく、常に保存されたのは、肝臓、肺、胃、腸でこれらの臓器をナトロンという塩化化合物で乾燥させ、油脂と樹脂をを塗って亜麻布で巻いたという。これは遺体と同じ処置である。
これらの臓器をエジプト学者が「カノポス壷」と呼ぶ壷におさめ、ミイラのそばに安置したという。
4柱の小神(ホルスの息子たち)が各臓器を守るとされ、壷の蓋をヒト、ヒヒ、ハヤブサ、ジャッカルを象って作られている。
ヒトには肝臓を、ヒヒには肺うぃ、ハヤブサには腸を、ジャッカルには胃をおさめたという。
今回出展のネスコンスのカノポス壷は、形状もほぼ完璧であり、彩色も鮮やかでした。
他にもミイラ関係では、ミイラ本体や、ミイラマスク、ミイラ棺、ミイラボード、リアルなミイラ・ポートレートもありました。

ミイラ・ポートレートはシナ材に描かれたものだったが、見たものはB.C60年ごろのローマ占領下のエジプトのもの。
文化も多文化であったらしく埋葬習慣もギリシアとの混合様式がとられていたようだ。
溶かした蝋を顏料に混ぜて描かれたミイラになった死者は、裝飾品をつけ、真直ぐにこちらをみつめている。

あまり知られていないようだが、大英博物館には版画やデッサンのコレクションが250点以上あるという。
デューラーの版画、クラーナハの素描、マンテーニャの素描、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの素描などが出展されていたが、「腕を上げる男と足の習作」というラファエロのデッサンは、キリストの復活に描く戦士の習作とうことであるが、ラファエロというよりもまるでミケランジェロの筆であるような筋肉隆々の裸体であった。

展覧会のちらしの表紙になっている「牛頭のある女王のリラ」は、イラク南部プ・アビ女王の墓から出土した二点のリラのひとつで、リラとは小さな竪琴のことである。
リラは墓抗の壁に立てかけられていて、宝石類や10人の女性の遺体も見つかり、殉死者と考えられたが、ひとりの女性はリラのすぐそばに横たわり、指は弦にかけられていたという。光り輝く牛頭裝飾は押潰されていたので角とともに復元されたらしいが、髭、髪、目はラピスラズリ製。
侍女はリラを女王の遺体の横で自分が死に絶えるまで奏で続けていたのだろうか。



2003年10月18日-2003年12月14日 東京都美術館
2004年1月17日-2004年3月28日  神戸市立博物館
2004年4月10日-2004年6月13日  福岡市美術館
2004年6月26日-2004年8月29日  新潟県立万代島美術館


at 22:22コメント(0)トラックバック(0)展覧会 

2004年03月11日

ハプスブルク夜話

西洋王族家系は、ちょっと思いだしただけでメディチ、ボルジア、バイエルン、ヨーク、ランカスター、ウィンザー、ブルボンなど数々あれど、どうも、私はハプスブルク贔屓のようで、ハプルブルク関連の本を見つけると喜んでしまう。

ハプスブルク王家が終焉を迎えんとする最後の華やぎや時代の終わりを予感する退廃的なムードにも惹かれる。
もちろん、オーストリア世紀末芸術にもとても惹かれているのだが、

さて、

この本の著者、ゲオルク・マルクスはウィーン在住のジャーナリストで、ハプスブルク事実上最後の皇帝のフランツ・ヨーゼフ研究の第一人者。

彼の著作は以前にも読んだことがあり、それは『うたかたの恋と墓泥棒』という本でしたが、
「実は、マリー・ヴェッツェラの骨を持っているんです」という人物が現れる。
マリー・ヴェッツェラとは、フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリザベト妃との間に生れた長男のルードルフ皇太子がマイヤーリングで心中した相手で、その遺骨を持ってるという実際にあった事件を描きつつ、マイヤーリングの夜にふたたびスポットをあててゆくというスリリングな内容の本だった。

本書の『ハプスブルク夜話』は、著者がウィーンの日刊紙「クローネ・ツァイトゥング」に書いたコラムをまとめたもので、『うたかたの恋と墓泥棒』の5年前に刊行されている。

訳者の江村洋さんは、日本のハプスブルク研究の第一人者であり、著書も訳書もとても讀易く解り易い。

アンナ・ナホフスキーという女性について詳しく書かれていたことに興味を持った。
ヨーゼフ帝がエリザベト妃を愛していたことはよく知られているが、妃はいつも何處へという状態だったから、少々浮名も流したらしく宮廷女優のカタリーナ・シュラットの仲などは知っていたが、この女性についての詳しいことは知らなかった。
ウィーンの町娘だったアンナはシェーンブルン宮殿の庭園で皇帝と運命的な出会いをする。
三十歳年下のこの女性は4人の子供を出産しているが、ヘレーネとヨーゼフは皇帝の子らしいということである。
ヘレーネは声楽を学び作曲家のアルバン・ベルクと結婚した。
弟のヨーゼフの方は幼い頃から神経障害に苦しみ多年にわたって養護施設で過ごしたという。
ヨーゼフ帝生誕百年の当日、贖罪として左手小指を切斷し、皇帝の石棺に保管を委託した。
その後、精神病院に収容され、姉のヘレーネの介護も空しく亡くなったという。

アンナと皇帝の仲は十数年続いたが、マイヤーリング事件のあと、アンナは王宮事務局に呼ばれ、宮内庁長官から皇帝との仲を終りにし、これ以後はふたりの関係に関して他言しないという念書をとられて、多額の金銭を貰ったという。
アンナは71歳でウィーンで亡くなるが、生前に日記を娘のヘレーネに託し、ヘレーネはその日記を国立図書館に委託した。
ヘレーネは91歳で死去したが、自分の死後三年たったら母アンナの日記を公開してもよいと遺書を残して亡くなり、国立図書館は日記を公開したらしい。

出会いからともに過ごした年月を記しているその日記の信憑性は信じ難く思われる箇所があるとはいえ、ふたりの関係が事実であったことは間違いがなかったといえるらしい。

「彼はいとしげに私をじっと見つめ、息が詰まるほど私にキスをした。私は幸福の海に漂っていた」・・・(アンナ・ナホフスキー秘密の日記から)

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2004年03月07日

『秋の声の巻』 満尾

去年の秋から巻いていた歌人の藤田初枝さんと矢嶋博士さんの両吟の 『秋の声の巻』 が今日満尾した。

もともと、3人でPRIVATE BBSをやっていて、そのなかでやりとりをしたものだが、
私は捌と挙句を詠ませて貰いました。

年を越しながら巻いた歌仙。

去年の京都のひとときを思いつつ、満尾。


at 22:09コメント(0)トラックバック(0)連句 

2004年03月03日

真夜の黒猫

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山科真白 短歌

冬の夜はくらがりに浮くうつしみのをんなの肌をゑがく夢みし

縺れたる指のあはひや 黒髮のをんな絵師にはなれなきものを

老梅といふ名の枯淡の練り香を貰ひて来しはをととひの宵

約束の雪舞ふ橋を渡るなら首にうさぎの毛皮巻きませ

こゑとこゑ繋がりてゐる目にみえぬけふもこゑのみ繋がるゆゑに

物の怪にまこと今宵は逢ひたしと言へば笑まふか真夜の黒猫

さまよふはひとの心よ きんいろのうはべ飾りはさびしかるらむ

その襖そろりそろりと開けたれば睦月如月白鷺を見ゆ

画材屋を廻りし冬のひと日終へ道づれの影しまふ抽斗



at 16:47コメント(0)トラックバック(0)短歌 

2004年02月26日

パラダイス・モーテル

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『パラダイス・モーテル』 エリック・マコーマック

こういう小説のことをどう書けばいいのだろう。

讀後すぐ書こうとするのが無謀かもしれないですが・・・(読み手には整理する時間が要の小説なのです)

主人公はエズラという男性で、中年の彼は海の見えるパラダイス・モーテルの枝編み細工の椅子に座って少年時代のあることを回想しはじめる。

彼の祖父は突然家族を置き去りに失踪し、死期が近いことを察して自分の故郷、捨てた家族のもとにひそかに帰ってくる。
屋根裏部屋に横たわった死の数日前、老人は孫のエズラにこのような話をする。

失踪して、多種の職業に就いた祖父だったが、甲板員で雇われてパタゴニアに行った時のことだった。
その船で機関士として乗船していたザカリー・マッケンジーが語った話だがと祖父はエズラに語り始めた。

自分の小さな頃、住んでいた小さな町に南部訛りの医者一家が越してきた。
その一家は外科医と妻と4人の男女二人ずつの子供たちで、妻は美しく円満な家庭のようだった。
事件は、一家が越してきてから一月もしないうちに起こった。
それは想像を絶する事件だった。
外科医は自分の妻を殺害し、妻をバラバラにして、その妻の両手首と両足首を4人の子供たちの腹部に埋め込んだのだ。事件の発覚後、外科医は死刑になった。
その話を終えた機関士のザカリー・マッケンジーは、白いシャツをまくりあげた。ウエストラインのすぐ上に真横に走る長い傷跡が見えた。


パラダイス・モーテルで寛ぐエズラは、その子供たちのその後を知りたくなる。

ふつうは、この4人の子供の運命を辿っていく過程を書いていくものだが、いえ、書いてはいるのだが、そのエピソードたるやその冒頭の意表をつくショッキングさを凌ぐもので、
少年に蜥蜴を飮込ませシャーマンが釣り人のように糸を手繰って取り出すイシュトゥラム族の儀式の話や、
からだに植物が生えた話や、
串を身体に25本貫通させ、26本目で死んでしまったカーニヴァル藝人の話。
とにかくその筆致の滑りはすざまじく、まるでジェットコースターに乗っているように絶叫もののストーリーが続く。

その4人の子供たちのその後の運命は悲慘なものであったが、
この物語の最後は最初と同じくパラダイス・モーテルの枝編み細工の椅子である。
そして読者のわたしたちも、見たことも掛けたこともないその椅子の上で著者に騙され続けていたことを知るのであった。



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2004年02月22日

死の歴史

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『死の歴史』 ミシェル・ヴォヴェル 著

本書の副題は

-死はどのように受け入れられてきたのか-   

とつけられています。

著者のミシェル・ヴォヴェルはパリ第一大学の教授であり、本国フランスでは、近代史の大家として著名らしく、専門は、フランス革命史と死の歴史だそうです。

生と死は歴史において、常に身近にあるものですが、今日は、その意識が希薄になりつつあるように思えます。
それは、生も死も家で迎えるのが減少し、その場が病院であることが殆どであるからでしょう。
職業柄、死を目の当りにすることが多いですが、日本も含めた先進国の現代人がもっと死とはどのようなものかということをつぶさに見つめたなら、生き方は違ったものになるのかもしれません。

さて、西洋絵画では、死せる人を描いたものをみかけます。
死せる人という書き方は間違っているのかもしれませんが、一番多いのはイエス・キリストであろうと思います。
十字架で息絶えたキリスト。降架され、マリアに抱かれるキリスト。考えれば彼はその時は間違いなく死者であるにもかかわらず、それを見る我々は、正者とは違うから恐怖であるというような感情は抱きません。
そしてそのうち、キリストや聖人の死ばかりではなく、兵士の死、民衆の死なども描かれていきます。
死はやはり常に普遍的なものであったといえます。

死が身近であった人々は死をよく知っており、死を恐れていました。
それは現代人のように抽象的な恐れ方ではなく、具体的な恐れでした。

日本でもそうですが、死は宗教とのかかわりが濃厚になる。
ヨーロッパでは度重なるペストの襲来がますます死を身近なものにしていきます。

ホルバインの繪畫でも有名ですが、死者たちが真夜中に墓場から現われ、墓地で舞踏をくり広げたあと、生きている者の中から新たな犠牲者を要求するという死の舞踏は、死者の誘惑という名を借りて、死の伝播の恐怖と密接な関係があるように思えます。

本書は題名どおり、西欧の死の歴史の専門家が死の歴史を時代背景や思想背景、宗教背景などとともに綴ったものですが、種々のことが多岐にわたって淡々と書かれています。

ヨーロッパだけではなく、他国のことも書かれていますが、
そのなかで、

メキシコでは、11月2日は 死者の日 で国民的祝日だという。
夜になるとここかしこで火が焚かれ、迷える魂を導くらしい。
こどもたちは、スイカの中身をくりぬき、型どりしてあざわらうどくろの形のカリス(聖杯)をこしらえて、死の塔のように中に火を灯す。
菓子屋の店先には、皮肉ぽくて挑発的な骸骨とカラベラス(万聖節の贈物にするどくろの形の菓子)でけばけばしく彩られるそうである。
この祭りは、あの夜にいくことがこの生という虚僞を解き放つ唯一の真の行為とされる。

アステカ人は太陽にいけにえを捧げなけらばならなかった。
いけにえには神に仕える巫女たちの手で甘いものが与えられた。このメキシコの死者の日の食べ物をめぐる風習はここからきているらしい。

死者の日に各家庭では、刺繍布で覆った祭壇を作るそうである。アステカで死者に捧げられた花、ゼンパズキトルで飾り、甘いものやそのほかの供物を供えるらしいです。

数年前、フアニータというインカのいけにえの少女のミイラが来日していて、見に行ったが、フアニータも山に登る前、甘いものを食べたのだろうかなどとふと思う。

その他各国の伝承や歴史なども書かれていて、勉強になった。

死とは、生を受けたからには避けられないものであるにもかかわらず現代人は、死がどのようなものであるかを考えるのは、家族のあるいは、自分の死の足音が自分の耳で聞き取れるようになってからのような気がする。

死をみつめる。学ぶということは、人が生きるということに多大なる影響を与える気がします。




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2004年02月21日

毒見役



『毒見役』 ピーター・エルブリング 著

16世紀のイタリア。

ウーゴの家はとにかく貧しくみじめで不幸だった。

ウーゴの母親はそれでもウーゴを「私の小さな王子」と呼んでいた。ウーゴも母親を誰よりも愛した。

ある日、母は自分の着ていた服を脱ぎ、それをふたつに裂いて、木に結びつけるようにウーゴに命じた。
ウーゴは喜んでそれを手伝った。
母はそれを首に巻きつけた。ウーゴは、様子がおかしいことに気づいたが母は木にぶらさがった。
どれほど叫んでも、手遅れだった。
ウーゴは一晩中、木の上にいて、腐りつつある母親の死体とともに帰ってくる父親を待っていたのだった。

貧しさは常にウーゴに付き纏っていたが、成長したウーゴはある娘に恋をし、結婚した。彼は彼女を深く愛し、やがて妻は身ごもった。
出産に耐えられず、妻は産んだばかりの子とウーゴを遺して死んでしまう。
その娘を妻が死ぬ前に囁いた名前「ミランダ」と名づけてウーゴは深い愛情を持って育てていくが、どうしようもない貧困はかわらなかった。

ウーゴは干乾びた野菜畑で聖母マリアに祈っていた。
ミランダに何か食べさせないとミランダは死んでしまいます。
その時、
黒い馬に跨った巨漢が姿を現した。コルソーリの領主、フェデリーコ公だった。
この領主の噂は貧しく身分の低いウーゴでさえ誰からともなく聞いて知っていた。
ウーゴは震えあがったが、
フェデリーコはウーゴを自分の毒見役に任命する。

ウーゴは愛娘ミランダと一緒にフェデリーコの豪奢な宮殿に連れて行かれる。

フェデリーコは兄を毒殺して領主になっていたし、他の誰からも憎まれていたので、常に毒を盛られるのではないかと思っていて、毒見役は絶対に必要な存在だったのだ。

毒見役のウーゴはフェデリーコの料理を先に口にするわけだが、今までの生涯で数回しか肉を食べたことがないウーゴは次々とでてくるご馳走に仰天しつつ、これらの料理に毒が入っていて、ミランダを遺して一瞬のうちに死んでしまうかもしれないという恐怖に苦しむ。

しかし、徐々にその生活こそが自分とミランダの生きるすべだと気づいたウーゴは、度重なる生命の危機を持ち前の機略と勇気によって乗り越えていくさまは、読者を飽きさせることがない。

この本は、著者が、『毒見役ウーゴ・ディフォンテの手記』という古文書を手にいれ、それを自ら翻訳したという体裁をとっているが、その古文書の存在さえも架空のプロットで最初からわたしたちはエルブリングの罠にはまってしまうのであった。

日本でも毒見役は昔からいて、時代劇などにもなっているが、西洋でも毒見役は魅力的な人格の人が多いのであろうか。

余談だが、『乾いて候』の主人公、腕下主丞(かいなげもんど)さんは、カッコよすぎる、、、、、



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2004年02月15日

ヴィリーへの手紙

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『ヴィリーへの手紙』 ルッツ・ファン・ダイク著

パラパラとめくって、あ、ナチ系の本だなと思って、図書館から持ち帰った。

ナチ占領下のポーランドが舞台の本には間違いなかったが、内容は斬新だった。

この物語は1941年から1945年にシュテファン・Kという一人の男性の体験した真実のストーリーである。

1939年、ポーランドはドイツの占領下に入る。ポーランド人である彼らも父親は出征し、家族は住んでいた家を追われた。シュテファンはドイツ人の経営するパン屋で働いていた。
父の消息はつかめなくなったが、母親は気丈に振舞い、年のあまり違わない兄は弟のシュテファンを可愛がった。

パン屋のドイツ人夫婦はシュテファンによくしてくれたが、夫人は浮気者で恋文を届ける役目をさせられる羽目になる。ある日、相手の妻にその手紙を取り上げられるという出来事があって夫人との関係がぎくしゃくしてしまう。

ドイツ人の劇場で歌うこともはじめた彼は、パン屋をやめてドイツ系の石油卸売会社で働き始める。

シュテファン16歳の11月のある晩、彼はある知らない人物に尾行されていることに気づく。ドイツ人優先の店で買い物をして帰る途中だった。
尾行していたのはドイツ軍兵士だった。彼の心臓は狂ったように高鳴り、自分がポーランド人であることがばれたらどうなるかを考えた。

顔をこわばらせ、手を震わせたまま中心街の端まで歩いた。
通りを渡って尾行していたドイツ軍兵士が近づいてきた。
目の前に立った兵士はシュテファンに礼儀正しく「こんばんは」と挨拶し、握手を求めた。
シュテファンの差し出した手を握り返すと彼は意外なことを言った。

「店の閉まる前にコーヒーでも一杯一緒に飲まないか」

シュテファンと同じ年の頃のそのドイツ軍兵の名前はヴィリーと言った。ヴィリーはオーストリア人だがオーストリアもドイツに支配されて彼もドイツの為に出征していた。

コーヒーを飲み終えた彼らは次に逢う約束をする。

つまり、男と女が出会って一気に燃え上がるような恋そのものだった。ただ、彼らはふたりとも男だった。

ドイツには「男性同士もしくは人間と動物といった不自然にして不道徳な性交を行なったものは禁固刑に処する」という刑法175条が制定されていた。

1934年、ヒットラーは突撃隊指導者を務めた腹心のエルンスト・レームを同性愛者ということで処刑している。その後ますます同性愛者に対する刑罰は厳しくなっていく。

シュテファンは自分が異性より同性に惹かれることをヴィリーと知り合う少し前から自覚していた。
ヴィリーとの出会いは大いなる危険を孕んでも、それに抗えないほど強い情念であり希求であることも解っていた。

彼ら二人は以前家畜の飼料倉庫として使われていたらしき古くかなり痛んだ納屋をみつけた。

それから毎日のようにその納屋で逢瀬を続けることになる。そんな密会が半年続いたあと、ヴィリーはその地を離れることになってしまう。ふたりは無理矢理離れ離れになってしまうのだった。

その4ヵ月後、シュテファンはヴィリーに手紙を書く。彼を案じてのことだった。その手紙には君への愛を誓うと書かれ、封筒の裏にはシュテファンは自分の住所を正確に書いた。

その後彼は勤務中にゲシュタポから呼び出される。シュテファンの目の前にゲシュタポが取り出したのは、ヴィリーに宛てて書いたあの手紙だった。

ヴィリーの消息はわからなかった。シュテファンは投獄された。

ユダヤ人の囚人は黄色の星印を、政治犯は赤い三角印を、同性愛者はピンクの三角印を縫付けられた。
ピンクの三角印の囚人はそのほとんどが死亡したが、生き延びたものの多くはとりわけ残酷ないじめと拷問にさらされたという。しかし、ユダヤ人の囚人とは異なり、ガス室での大量殺戮の犠牲になることはなかったらしい。シュテファンは脱走して生き延びた。

それからの彼の人生も平易でなかったようだが、農場の管理人となり、収容所での傷が原因で早く退職したという。
ポーランドを離れることはなく、ヴィリーのいるであろうオーストリアには一度も行ったことがない。
ヴィリーは探してもいまだみつけることができないらしい。



at 17:48コメント(0)トラックバック(0)書評 
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